長唄聞書24「安宅の松」





第十回再々会のプログラム解説に色々書きましたので重複する所が多いと存じますが、御許容下さい。長唄の唄浄瑠璃の代表的曲として基礎的なものですから、よく御研究下さい。「旅の衣は篠懸の」の次第は法師次第と云う由で、主人公が法師の時、例えば「時雨西行」もこの用法を使っています。「勧進帳」も初演の折はこの次第であったそうです。
初演の富士田吉治は一中節の太夫であったので、その作品には一中・半太夫の節が多く使われ、置浄瑠璃の「都の外の」以下は半太夫節を使っています。こゝの部分はサラリと演奏する様に云われました。「思いやるこそ遙かなれ」は江戸ガカリと云う手、次はヨセの合方です。「東雲早く」は半太夫の節で、唄い方は二通りありますが、研精会系以外の節の方が半太夫と云えると思います。「有乳山」は和(やわらぎ)オトシで河東節のユリステと同じ手法です。「宮居久しき神垣」ははっきり唄わぬと歯みがきに聞えるので要注意です。「見えたるは」はアミドガカリと云う手ですが、義太夫で使うアミドとは違います。
子供の出の合方は上調子が活躍で、昔おさらいで、この上調子を弾く為一曲出した方がいらしたそうです。この部分の歌詞は江戸時代から問題があり、柳亭種彦『用捨箱』にその考証が種々書かれています。江戸時代の童謡や童話が取入れられています。「走り」が三つ出て来ますが三つとも唄い方を変える様云われました。上調子は昔ここ迄で二上りからはカセを外した由で、全曲上調子を入れたのは十代目杵屋六左衛門と云われています。この子供は昔小松・若松という二人の子でしたが、後に賤女実は松の精と云う演出になりました。文化十二年河原崎座再演の折は草刈娘となりました。この折タテ三味線が四世六三郎でしたので大分手を(特に二上り)入れたか(?)と私考しています。二上りは俗謡の「しょんがいな節」をとったと書いた本がありました。ここの笛は戦前は許物であったそうで、住田家では返しに笛を入れた由です。「しょんがいな」の後のアアがむつかしくこれをうまく出来ぬと三味線から大目玉がきました。「絶えずや」は『文正草子』の出典の由で、昔はホホホで切らず、ホホホを二度云いホホホホウと続けたそうです。「うっておけうっておけ」の後のシャンシャ ンは唄三味線一緒に云った初演の時の形が残ったものでしょう。ここでシャンシャンと祝いの拍子をとったのは次の三番にかゝれる段取りかと思われます。この部分は常磐津「子宝三番叟」で、三味線は三番地を弾いています。「扇になじむ」から唄は辛いです。古老の御話に、こゝは声のよい人には上手く唄えぬ所ですと云われ、よく意味が判りませんでした。「天地も一度に」は外記節との事です。段切の「見失しないてぞ」は、顔見世狂言四立目の曲故、その様に唄えと教えられました。上から派手に、又位どりをして唄うと云う事でしょうか。この曲は個々の演奏もさる事乍ら、ツレが悪いと曲をこわしてしまいます。唄三味線とも充分ツレに神経を使ってもらいたいものです。事の序に御存知かもしれませんが顔見世についてごく簡単に申上げます。

顔見世について


歌舞伎の世界は十一月に始まり翌年十月に終るのが、江戸時代のきまりでした。これは中国の暦の考え方から来たそうで、(関西は十二月に始まる事になっています。)江戸三座はこの十一月からの一年契約を、役者、演奏者、関係者と結びます。現在の野球のトレードと一寸似ていて、役者等は交流をし組合せが異なるわけです。新組合せは顔見世番付で人々に宣伝し、景気をあおります。十一月一日に、太夫元は裃、羽織袴で芝居正月を祝い(三日間)初日は早朝明六つから翁わたしの式を行った由です。吉例のこと故準備は早く、九月十二日に関係者が寄合い狂言の世界を定め準備をします。続狂言で一日一本立が原則で、一番目は時代物、二番目は世話物ですが、三四番目はプランだけで余りやらなかった方が多い様です。一番目は序から二立目より五立目迄有り、序と二立目は名題下の役者で三立目が本質的序幕でここから重要な役者が出、大体神社の回廊にきまっていました。三立目は舞踊劇で「関の扉」「戻り駕」等が、顔見世四立目のよい例です。五立目は世話がかった部分が中心になる場合が多く金襖御殿の場で、一番目の大詰となります。二番目は世話物で序幕・中幕・大切となりま す。顔見世狂言は特に多くのきまりがあり、色々の演劇書に出ていますからお読み下さい。



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