この曲は十代目杵屋六左衛門作曲とされていますが、二代目芳村孝次郎の作曲と代々言われています。江戸時代は今と違って唄方が作曲する事は無く、必ず三味線方が作曲するきまりになっていたそうでその為十代目作曲と伝えられて来たと思いますが、合の手などの各部分に十代目らしい手法があるので十代目も作曲に力を貸したと考えられます。
二代目孝次郎は作曲の面でも優れていたようで、十数曲作曲があると伺いました。初代杵屋六四郎作曲の「麹車」「此君の一節」なども、孝次郎が節付に関係したらしいと聞いた事があります。
この曲の作曲年代も諸説あって、弘化年間(1844〜48)説、嘉永三年(1850)冬河原崎座で二代目襲名の折の説、同四年(1851)両国中村楼で襲名披露が行われた時の説、安政四年(1857)説があります。私は曲の歌詞から考えて嘉永四年説をとりたいと思っています。小谷清楓『長唄の心得』に、浅草奥山へ桜が植えつけられた時孝次郎名弘めの会が開かれたので、この曲が出曲された、とあります。正本を見ていないのではっきり申せませんが、同書に、唄・孝次郎、三味線・六左衛門・六四郎、上調子・三郎助とあり初演の折は上調子もあったようです。孝次郎は美声で惚れぼれするような演奏であったと伝えられています。
本調子は「のどかなる」は序でノンビリと春の隅田川を連想させます。次の合方はどの解説書も「蝶の飛交う様」とあります。次の歌詞「霞がほらか」も色々諸説ありまして「霞か空か」「霞かほらか」などありますが、幕末出版の名古屋本を見ると「霞か洞か」となっています。ここは霞がの方が意が通じる気がしますので私は「霞が洞か」で演奏しています。
二上り「蝶鳥」は琴唄の由です。「くぐる燕」は日吉小三八師より孝次郎の型、喜代八の型、三代目孝次郎の型と三種類聞かせて頂きました。現在一般的に演奏されているのは二代目の型です。先年歿くなられた杵屋六里太郎師と御一緒させて頂いた時、暫くぶりで喜代八の型を聞きました。「朧月」の後スガガキ、追廻しの合が使われています。
三下り「初恋の」は華やかな踊り地で、下座音楽でよく使用されます。「面白や」と謡がかりで出、後チラシとなります。この曲は全体的に上手く面白く作られていますが特に二上り、三下り、は作曲の妙で優れた名曲と思っています。此の曲は各流派で大きな手法の違いは余りなく、割と気を使わず出来るような気がします。特に唄の曲節が大変面白いので凝って研究すると充分効果があがると存じています。
芳村孝次郎は代々名人で、初代は奴まげを結っていたので奴の孝次郎、二代目は目が悪く大きな目であった為目玉の孝次郎、三代目は提灯屋から唄うたいになったので提灯屋の孝次郎と呼ばれています。
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