長唄聞書62「見月」




元治元年(1864)五月二十日、十代目杵屋六左衛門七回忌の会が中村平吉方で行われましたが、その時、十一代目杵屋六左衛門(根岸の勘五郎)が追善曲「月五首」を作曲しました。その中の一曲です。五曲は、八月十五夜・對月問答・旅宿見月・見月・月下の鶴、ですが伝承されているのは、見月と月下の鶴の二曲です。浅川玉兜『長唄稀曲めぐり』に二曲の詳しい考証があります。
十代目六左衛門が死去したのは、安政五年(1858)八月十五日明方で、江戸で大流行したコレラに冒されたためです。記録によると七月頃から始まり八月が最盛期で十月には終焉しました。病で倒れた人は二萬八千余人に達した由です。江戸では「コロリ」とこの病気のことを言いました。十代目は作曲の名人でしたが、演奏もすばらしく、撥皮に当る所が二ミリと狂いが無く一曲すむと撥皮に穴があいたそうです。左の手は決して湯につけなかったとか、袂に御手玉を入れていて常に手の練習をしていたと云う話が伝えられています。俳名を雪東舎吐暁、夜柳庵左月と云い文学的教養も深かったようです。
この『月五首』も十代目が作った歌を始めに持ってきて歌詞が作られています。見月では「わが袖に影やどらんとかくばかりは月は涙をこぼさするにや」を使っています。全曲二上りで仲々名曲です。曲の初めは琴唄風に作られ、和歌の終る所(こぼさするにや)で終了の形を一時的にとっています。「その言の葉を」を琴唄風にかヽり、「七とせ」の所は説経節を使っています。「なヽさかさりて」と七回忌にふれています。「野辺の千草のすだくなる」迄すばらしい作曲と思います。ここをオトシ風に作り、虫のくだりに移りますが、前半は唄が主体、後半は三味線が主体のように作られています。虫の部分は二回返します。「マツムシの声すなり」をなると書いてある本もありますが誤りです。松虫、鈴虫、こおろぎ、きりぎりす、蜘蛛、くつわ虫が出て来ますが、くつわ虫の擬音が外オサエで作曲されています。「あかぬ裾野」の所は落ちやすいので唄方は注意が必要です。「ぬば玉」と一寸謡がかりで出、サラリと終ります。
三代目吉住小三郎の『唄の栞』によりますと。唄が三代目吉住小八・五郎治・芳村辰四郎、三味線が四代目杵屋弥三郎・辰三郎のメンバーです。小八はカンもきいた名人で節が細かく唄い方が残されています。芳村辰四郎は四代目杵屋弥三郎の唄門弟で、タテ三味線の弥三郎の縁で唄に入ったのでしょう。小八は前名五郎治でしたので、ワキの五郎治は門下と思います。タテ三味線の弥三郎は大変十代目に可愛がられた人で、故人と関係深く、タテをつとめたと思います。作曲者の十一代目はこの曲を弾いていません。ワキ三味線の辰三郎は鎭之介と云い弥三郎の長男で、二代目辰三郎を継ぎました。

                  

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