長唄聞書55「内裏雛」





長唄の「内裏雛」という曲は二つありまして、天保元年(1830)四月河原崎座「桃桜戯暖幕」上の巻、四代目杵屋六三郎作曲、いま一つは杵家に伝承されている二代目杵屋勝三郎の曲です。この曲は嘉永六年(1853)三月市村座「花吉田岩尾松岩」第二番目大切所作事四変化「四季写手向花籠(しきうつしこころのはなかご)」の春として上演されたもので、作詞は狂言作者が三代目桜田治助・松島ていふうの二人なので何れかと思います。所作事は前年嘉永五年に他界した四代目中村歌右衛門一周忌の追善で、角書に「大和画の毫の高助をかりそめにひまゆく駒の一週して」とあります。配役は男雛を初代中村福助・女雛を三代目岩井粂三郎でした。福助は二代目中村冨十郎門下富四郎の息子で四代目歌右衛門の養子となり、後四代目中村芝翫となった人で、三代目歌右衛門が幼名を福之助と云ったゆかりから福助の名をつけました。この人は所作事に特にすぐれ、型物の様式的美しさ無類と云われ芝翫型といわれる演出を残しています。岩井粂三郎は後八代目岩井半四郎となった名優で、背が女形としては高過ぎたので低く見せようと努力した由で、舞踊は大体不得手で顔もオデコであったそうですが風姿は媚めかしくみずのしたたるようであったと伝えられています。
タテ三味線は作曲者の勝三郎でワキを杵屋弥七がつとめたので杵家派に伝承されたと思います。タテ唄は三代目芳村伊十郎から二代目吉住小三郎になった名人で、当時の評に曲唄といわれたとありこれは美声で声に幅があり節廻しが巧みであったと云う事で、この特色が曲中に感じられます。曲は全体に優雅で品よく作られています。全曲本調子で通してあり、楽を模した「玉だれの」で始まり「世々に久しきためしかや」迄はオキかと思われます。活字本に十日の節会とあるのを見た事がありますが踏歌の節会の誤りでしょう。「久しき」の所の手が御簾が上がって行く手ですが次はセリの合方の様なのでどういう演出をしたのでしょうか。この合方で御殿を押出したのではないかと云う人もいますが、合方はセリの手法の合方なので疑問です。「雲井の庭に」の所で となるのは一寸足がもつれた表現でしょうか。「楊貴妃」の の手は唐楽を匂わせたと思います。それより桜づくしとなり「御簾のひま」よりクドキとなります。「忍ぶにたえぬ」の合方に「春の調」などにも出てくる勝三郎の好む手が出てきます。「美しや」でオトシとなり気分を変え「松も小高き」となり合方のあと「弥生の」からチラシとなり終ります。渥美清太郎先生は「箱の御殿に」で舞台を廻して夏の部へ変えたのではないかと書かれていますが、私はにイをのばす所で御簾が下りたのではないかと思いました。廻りでは次が子守なので一寸無理な気がします。

                  

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