二世吉住小三郎が若年の頃、「柴田五万石」の越後松坂節の所を工夫し好評を博し立身のきっかけとなった為、吉住派では代々重い曲としています。本名題は「后の月酒宴島台」ですが最近は後の月とある本が殆んどで、后の月は陰暦八月十五夜に対し九月十三夜を云い、初演が文政十二年九月十二日であった為この名題をきかせたと思いますので正本通り后の月とすべきでしょう。昔伺った話によると歌右衛門と菊之丞の間に一寸としたいさかいがありそれを幸四郎が仲に入り収めた事を狂言に取入れた由です。この幸四郎の役をイサミ橋場の松五郎とした本がありますが初演番付は揚場の松になっており、角兵衛役の歌右衛門は一時芝翫になり又歌右衛門に復帰したので芝翫になっている本もあります。鳥追えくぼのおはまの菊之丞は美貌で評判の人でしたが悪声で「オヤ聞いたようだよ」のセリフが妙に人々の耳に残り地口や悪じゃれが流行したそうです。この菊之丞名跡は京都の俳人仙鶴が、秀吉韓国出兵の際の瀬川采女の妻菊の貞節に秀吉が感動した故事によりつけたと云う話が『菊家彫』と云う本にある由です。
曲につきましては吉住慈恭師『私の長唄』の中にありますので是非御一読下さる様おすすめします。曲が出来ました時、六左衛門と式佐が始めて合わせた折曲がぴったり合ったので二人で喜んだと云う話が伝わっております。この曲のむづかしい点は二つあると私は思います。常磐津・長唄の掛合なので語る所と唄う所が交互にありどこが常磐津かどの部分が長唄か調べておく事が大事です。唄う所と語る所をはっきりする事が必要でしょう。今一つは「翁千歳」を引抜いて「角兵衛」になるので品位品格と云うものが大事ですが、曲は全体が軽妙に出来ているので”品位のある軽妙さの表現”が極端にむづかしいかと存じます。変に軽妙にしたりイナセにしたり媚びたような表現をすると品が悪くなり曲が死んでしまう気がします。こうした曲は三味線と唄のイキがピッタリ合う事が必要で、これ又むつかしい事です。単に譜の通り間違えず演奏したり曲中の人物になり切り声色みたいな表現はそれはそれでよいのかもしれませんがこの曲はそうしたものではないと存じます。例えば「獅子の洞入り洞がえり」などは文政時代の隠語との事で、こう云う所はかえって品よく棒にやる様云われました。洒落や掛け言葉も多く、掛け言葉は両方の意が判るよう唄えと何時も云われこれも大変な事です。常磐津の方は「森の烏か」と濁らず長唄は「森の烏が」と濁り意味が全然変ってしまいますが、長唄初演正本は濁っているのでこちらをとっています。「オヤ聞いたようだよ」は間が悪いと三味線が弾けなくなります。「せったら黄粉」は流行語なのできなこはわざと訛る様云われました。この曲については書く事がまだまだ山のようにある気がします。
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