従来「花の友」という銘茶売出し宣伝の為作曲されたといわれていましたが、この銘の御茶はその頃の記録に見当たりません。宣伝曲なら一曲中に「花の友」の言葉が入っているはずですが、これもありません。滝川政次郎先生著『吉原の四季』にこの曲の考証ががありそれによりますと、新宮藩家老、柳瀬源五右衛門、用人、石畑福左衛門(『武鑑』には福助)、御茶宗匠二世川上不白の三人が、川遊びの折その感興忘れ難く記念に曲を作るという事が記されています。曲中三人の名を歌詞に詠込み「心もすだの川上に」「染むる柳の瀬に」「約束固き夫婦石はたで見る目も」とありこの話は信じてもよいと思います。作曲は十世杵屋六左衛門という方もありますが、濃州屋安兵衛版の正本にタテが杵屋三五郎になっていますので三五郎作曲と存じます。また川上不白の初代は如心斎宗左の門で不白流の祖で、紀州新宮藩水野家に仕えた江戸住の人なので、この三人の交流は考えられます。初代は文化年間に没していますので、この不白は二世(四世説もあり)と思います。
曲は隅田川の流れを模写した前弾で始まり「心もすだの川上に寄するは春の友なれや」と川上の家に友人が春相寄った事を述べ、次の丹前六法の手は三人が目的地に道中をした表現で「つきぬ眺」は目的地に着きぬと尽きぬのカケ言葉と存じます。このくだりは一中節との事で、花のチラチラ散る表現をし、あと茶道に関した名称が歌詞に詠込まれています。七事式の一つに「花月」があり、折据という包みの中に十種の札を人数に応じて入れた花の札をとった人が茶をたて、月の札をとった人が主客となって茶を喫しますが、それを上手く詠込み作曲上にも工夫がみられます。「見渡せば」は佃でここは船の外、「桜が物言おうならば」船の中の小唄と区別されています。二上りは香道で、チラシの「花の数々」で華道と、曲は茶・香・華の三つを唄ったかと私考しています。女夫石は本所番場石屋五郎兵衛店先にあった石像の由です。
各流派で所々手が異なりますが、余り大きな違いは無いようです。「過ぐるすさびの面白や」のやを上で唄う派と、「粋な隅田」をすいたと唄う派がある事と、二上り始めの手が二種ある事と、「桃椿」の扱い方が違う事と大別するとこの位でしょうか。昭和十年代に稀音家浄観師が上調子をつけられ、研精会系で時々演奏する事があります。作曲年代は天保十年頃が定説になっていますが、正本に二代目吉住小三郎の名があり、芳村伊十郎が小三郎と襲名したのが弘化三年ですから、この頃の作と思われます。三五郎作で伝承されている曲は、大内の花宴、乱菊の胡蝶(屋敷娘)、今様班女、おぼろ夜、お通半七、奴凧です。三五郎は旗本の出で本名吉田氏、茶道香道和歌俳諧に造詣深く、一中節等古典に精通されていた由で、夫人は茶道に長じ宗海と号されました。墓と歌碑は、四谷大木戸から大正三年西永福に移転した法眞山理性寺(通称、火伏せ大黒の寺)にあります。
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