この曲は個人的に思い出が多いです。七代目伊十郎師と初めて演奏したのがこの曲でしたし、或る名人の方に変な所でカケ声をかけられ落された苦い経験がある曲です。落ちる方が悪いのですが、その方は若輩の私に曲が終ってから「大変失礼をした。」と丁寧に詫びられ恐縮しました。やはり偉い方は違うとその時痛感しました。
作曲年代は安政三年二月で、この前年十月安政大地震があり、芝居三座はもとより江戸が殆ど壊滅した時です。勝三郎が責任者であった市村座も二月にやっと普請が出来た位なので、その空いた時を使って作曲されたと思われますが、昔の震災前の様な江戸の繁栄が復興される事を念じて作曲したのではないでしょうか。段切を「栄うる御代こそめでたけれ。」で結んでいるのはその意の現れかと私考しています。作詞は織月亭とあり「四季の里」もこの人ですがどう云う方か判りません。御存知の方は御教え下さい。
曲は春秋夏の隅田川の描写で仲々の名曲と存じます。曲の初めの図1と云う手は揚げ幕が上った表現でシテが登場、改って船の由来を語ります。唐土の故事から図2と唐楽の手を使っています。「船とかや」で出の合方隅田河口の春の情景描写や、二上りの唄に充分唄わせる手法など巧みな作曲と存じます。「にたり」は荷足船ですが下手な人がやると「ニタリ」と笑っている様に聞こえます。竹屋の渡しは始め待乳の渡しと云っていたのですが、三囲神社鳥居前に「都鳥」という茶屋がありそこの女将のお美代と云う美人が、お客があると対岸の船宿に「竹屋!」と呼んだ美しい声が評判になり、遂に竹屋の渡しといわれる様になったそうです。隅田川の船の事、渡しの事書出すと面白くてキリがないのでまた何かの折御話しましょう。「もしやそれかと」は豊後浄瑠璃系の旋律で『角兵衛』にも似た型が出てきます。三下りで佃の手を上手く使っています。「様は山谷」は酔って歩いている気持ちでやる様云われました。「自体我等」は当時の流行歌で『一人椀久』にもあります。「ゴオチェイ」は当時流行の支那拳で「ジャンケンポン」の感じでやります。この曲は勿論節も間も大切ですが、一番大事な事
は息合いで後半特に重要です。特にツレなど全員で息がピッタリ合ったら非常に面白い成果が出ると思います。
作曲者は馬喰町に住んでいまして、昔このあたりに初音稲荷がありそこに古い馬場があって初音の馬場と称されており、勝三郎もそれで通称馬場と呼ばれていました。この方は大名人で、三味線一挺で喜怒哀楽を弾きわけた由です。若い時疱瘡をわづらってその為非常に怖い顔になり馬場の鬼勝と仇名をされましたが、これは顔の事だけでなく手が極端に廻った事、作曲が大変上手い事が鬼神の技だと云う事でこの仇名がついたとの事です。
|