戦後五十三年もたってしまいましたので、忘れない内に御話しておきます。戦時中は今では想像も出来ない程全く何もかも無くて、三味線の皮も無く「大和」と云う絹にノリを塗った皮が代用された事がありましたが、大変悪い音でした。三絃商の方が和紙にノリを薄く塗って皮を作りましたが、こちらは今のよい稽古三味線位の音はしました。欠点は長持ちのしない事でした。糸など切れると結んで使っている人もいました。糸巻の穴に輪を作って入れ、それに糸を結んで使う人もいました。皆買だめをしていましたが、不思議な事にヤミで手に入る事もありました。演奏会は始めに皇居遙拝があり、金屏風ではなく日の丸の旗を後ろに下げてありました。演奏会開催条件として、戦意高揚の曲を入れるか新曲を入れる事が義務づけられていました。「白相大尉」と云う新曲を父が演奏しました時、機関銃の音とか飛行機が落ちる音とか入って珍なる感じがしました。しかし、「白相大尉の微笑みは」など云うクドキ的な所もあり起承転結がキチンとした長唄でした。戦局が激しくなると、三味線を弾く事は時局をわきまえぬ非国民と云う事になり、白眼視され、皆弾きたくても演奏出来ず、「早く演奏が 出来る時期がくるとよいですね。」と云うのが 挨拶の言葉でした。大空襲で着のみ着のままで逃廻りましたが、誰もが三味線のカバンと紋付の風呂敷包みを必ず――何をおいても――持出していて今思っても偉いものだと感じます。戦後はともかく弾きたくても演奏したくても弾圧され押さえつけられていたのが、解禁になったのですから、ギャラとか地位とか一つも文句を云わず、最高の演奏なり演技を各自いたしました。焼芋一本ででも「鏡獅子」を弾きに行ったでしょうね。ともかくお金とか名誉とか問題ではなく、演奏したくてしたくてたまらなかったのがやっと自由に演奏出来るので芝居も寄席も舞踊も最高のものでした。私など丁度その時に合え経験出来て幸せだと思っています。もう今後は望めないでしょう。その代り大体皆貧乏でした。戦後の物が無かったのも、戦中以上で、皆食物が無くて会うと食物のことばかり言っていました。その代り戦中と違ってヤミでお金を出すと何とか手には入りました。楽器でも糸でもそうでした。しかし世情が一変して世渡りが下手なため、多くの名人が世の中について行かれず、栄養失調で没くなったり、汚い陋宅で不遇の内に没くなった方が多くありました。戦後、山城・清六・文五郎の舞台に接した時平和が来たと痛く感じましたが会場は今と比べものにならぬ程空席が多かったです。菊五郎・吉右衛門・幸四郎・慈恭・抄太郎・富崎春昇とか枚挙にいとまない程大名人方に接し幸運でした。ともかく戦後二・三年は日本芸能界最高の時代でした。 |