曲の方は一回御休み頂きまして、昔話と苦言を一寸申上げます。
まだ二十歳代の頃ですが、故日吉小三八師に大目玉をくった事がありました。家の仕事で三味線誰に行ってもらうか相談しておりました時「義次郎でどうでしょう。」と申しましたら、師は顔面紅潮して怒りましたね。義次郎君は君の父親の弟子であって君の弟子ではない。君が稽古して仕込んだのなら呼捨てにしてもよいが自分の弟子でもない人を呼捨てにするとは何事かと云うお叱言です。大体君の父親は偉いかもしれぬが君は芸界ではペイペイなのだ。父親の威を借りて偉ぶる様なみっともない事は絶対してはいけない。これは随分身に沁みましたね。序に、一日でも早く生れた人なり、一日でも早く芸界に入った人は先輩なのだから礼を尽くす事を心掛けるべきだと云われました。それからは一人で行く時より父と一緒の仕事の時の方が、神経を余計使いました。実際父がいる時といない時では全然皆の態度なり扱いが違うのですから、かえって苦労しました。一昔前などは楽屋で、いゝ着物を着て行くと古い怖い連中が聞こえよがしに「今の若い奴は芸は下手だが着る物は良いね。」など云われたものでした。洋服を着ていって着替えると、着替え終るのを待っていて煙草を買いに行かされるのです。
洋服の時云ってくれればよいのにと、何度も思いました、が昔は紋付きを着終るとタクワンを買いに行かされたそうで、まだ今の方がよいよと、浄観師に云われました。六挺六枚で一番下っ端で行った時、袴をたゝませられてたためどたためど袴が無くならないので悲壮な気がした事もありました。が今となると楽しい思い出の様な気もします。
昭和二十年代に父の御伴で宴席に行った事があり、その時大名人の豊竹山城少掾師がいらっしゃいました。師はその頃劇場へ通うのに都電を利用しておられたので、同席の一人が「師匠は都電が御好きですか。」と何心なくお聞きしました時、はっきり覚えていないのですが、自動車で通う程経済的事情が許さないと言う様な御答でしたので、一座がシンとしてしまいました。事実その頃は今と違って割とガラガラの入りでしたし、外の御仕事も殆んど無かったと思われます。それ以来、私はどうも自動車やグリーン車に乗る時、山城師程の大名人でも都電で通っていらしたのだと云う思いが先に立って、身分不相応な気が何時もして申しわけないと思うのです。それでいまでもグリーン車や自動車に乗るとき、抵抗があります。
研精会系は昔から時間厳守がうるさくて、稽古に朝八時五分に行くと(八時の約束)お早うございますと云おうものなら、早いと云う時間じゃないよとお叱言、君、汽車なら一分遅れても乗れないよと重ねて云われます。研精会譜を作られた吉住小十郎師は特別に正確な方で、十二時と云う約束で十一時五十五分に着くと玄関前で立っていて時報と共に呼鈴を押したと父が云っていました。御辞儀のしかた、御禮の云い方もうるさかったですね。今の方々は御禮を云うのが下手なのか無精なのか判りませんが、どうして電話一本、葉書一枚ですむ事が出来ないのでしょうね。これは長唄界だけの事でなく一般社会でも同じ事だと思うのですがね。どう御思いですか。
昨年、思いがけず芸大楽理科で講義をする事になり、泥縄的ですが、あわてて猛勉強をしました。こんなに本を読んだりノートをとったりテープを聞いたりしたのは、四十年ぶりでしょう。勉強していて思った事は、先人の方々の研究・造詣の深さと云う事で、それに引かえ自分の浅学と云うか何も知らぬに等しいと云う事、改めて痛感しました。気のつくのが一寸遅きに失した感がありますが、生涯一介の学生と云う事再認識した次第です。
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